現在、ゲーム開発は企画段階にあり、開発中のゲームはありません。

『ゲームというエンターテインメントの創造』

2024年現在、半世紀にも満たない時間で人々の生活は大きく変わりました。
コンピュータとインターネットの影響を受けたデジタル産業、特に娯楽産業の躍進。

アナログからデジタルというステップを経ず、終始一貫してデジタル環境によって創造されてきたコンテンツ。
それらは、開発環境の整備や標準化、最近では生成AIの台頭により、一部の人にしか難しいとされていたクリエイティブスキルすらもコモディティ化してしまいました。

粗製乱造という言葉が似つかわしくないほどに、人の手に余る高精細なイラストを無尽蔵に作り出す生成AI。
集合知によって、もはや領域を横断した知能に関しては人類が太刀打ちできないレベルに達したLLM。
それらによるコンテンツ産業を根本から覆しかねない近年の革命は、モノづくりの在り方も変えると予想されます。

いずれ、生産されるコンテンツの量が、すでに顕在化しつつある人類の需要を超越する状態に達したとき、人類は娯楽を"消費"することをやめ、代わって娯楽すらもAIが"消費"するのではないか。
そんなSF染みた未来すらも現実味を帯びてきたように感じます。

ホワイトカラー職の大半はAIに仕事を奪われ、いずれロボットによってブルーカラーの仕事も奪われる。
仕事も奪われ、娯楽も奪われ、人類は何を思い、生きるのか。

モノの品質を競い合う時代はすでに過ぎ去り、体験を競う時代も限界を迎えつつあります。
日本人はデモをしないと言われますが、かつてないほどにSNSによる主義主張は激化し、旧態依然とした搾取の在り方を批判し、政治や資本を翻弄しています。

行動経済学を利用したナッジは毛嫌いされ、以前にも増してプライバシーの重要性が叫ばれる時代が到来します。
プロダクトの品質も量も、今の価値観においては、個人が新たに産み出して太刀打ちできる範囲のものは限りなく失われつつある。

コロナ禍にそのような事象を目の当たりにした私は、数々の哲学的な問いを経て、人類に残された希望を一つ見出しました。

それは、脳による錯覚だとしても、人々が自らの「自由意志」を感じることではないか。
世界を包括する資本主義社会において、過去から未来まで通用しうる法則を挙げるとしたら、「自由意志」の行使である。
経済的価値や、比較論の意味を超えて、存在を許される行為やものの根拠は、「自由意志」にしか残されていないかもしれない。

今時点で私が考える、ゲームを創造する、ゲームを創造したいという夢玄円のビジョンはそこに立脚しています。

わたしは、わたしのゲームを創造したい、という自由意志を行使する。
そして、わたしが創ったゲームを遊びたい、という思いを持って下さった方の、自由意志意思を尊重する。

この先、そんな意味での「自由意志」を尊重しあう時代が訪れると予感するのです。

経済的価値や、比較論の意味を超えて、無数に創られてきたゲームがあって、これからも無数にゲームが創られていく。
そんな中、人類に残された自由意志というフロンティアで戦うため、夢玄円はゲームを創ります。

物語も体験も、それは人生の隠喩であり、それらは生存確率を高める知識や知恵として、人類の祖先が求め続けてきた"モノ"である。
遺伝子に刻まれているこれらの魅力と呪縛からは、人間としての活動を続ける限り逃れることはできません。

やがて、ゲーム創造という行為、それすらもメタゲームへと昇華する世界で。